Aemilius Scaurus 家


Aemilius Scaurus 家の系図
アエミリウス・スカウルス家





 スカウルス家は、古代アエミリウス氏族の貴族の家系であったが、かなり遅くの時代まで無名のままだった。しかし「新人同然」の状態から登場したマールクス・アエミリウス・スカウルス(115執政官等)は権力を上り詰め、「世界をそのうなづきで支配した」と言われるまでになり、家系もその後ティベリウス帝の頃まで存続した。
 「スカウルス」とは、足首あるいは脚に障害を持っている人のことを意味し、家名として他にアティーリウス氏族、アウレーリウス氏族でも使用された。






Lucius Aemilius Scaurus
 ルーキウス・アエミリウス・スカウルス

貴族
190 副官?

 アエミリウス・スカウルス家で記録に残る最初の人物。
 前190年のアンティオコスに対する戦争で、ルーキウス・アエミリウス・レギルスの下で副官を勤め、小艦隊を指揮してへレスポントスに送った(リーウィウス、37.31.6)。





Marcus Aemilius Scaurus
 マールクス・アエミリウス・スカウルス

貴族 163頃-89(老齢)
祖父:Lucius
父:Marcus
妻:Caecilia Metella(Lucius Caecilius Metellus Delmaticus(119執政官)の娘)
息子:Marcus Aemilius Scaurus(56法務官)
   Aemilius Scaurus
娘:Aemilia(Manius Acilius Glabrio(67執政官等)の妻)
      (Gnaeus Pompeius Magnus(70執政官等)の妻)
122? 上級按察官
119迄に 法務官
115 執政官
112 使節
111 副官
109 監察官
109 Special Commission
104 Cur.Annon.(穀物の供給管理)
93以前 使節(あるいは副官)
123-89/88頃 神祇官
115,108,102,97,92,89? 元老院主席

 貧しく無名な家系の出身にも関わらず絶大な影響力を持つにいたり、前120年から90年まで30年にわたり元老院を主導した保守派の人物。最後の偉大な元老院主席であり、キケローは彼に関して、「彼がうなずくだけで、ほぼ全世界が支配された」と書いた。彼は元来カエキリウス・メテルス家の子分であったが、政治的栄達を果たしてその党派の主導権を握るに至ったのである。彼はその権威を使って多大なる権勢を振るい、それは一私人としての提言でオピーミウスをグラックスに対して出動させ、マリウスをグラウキアとサートゥルニーヌスに対して出動させられるほどであった。
 
 彼は前163年に生まれた。彼の父親は、パトリキ貴族の家柄であったにも関わらず、貧困のために木炭の取引を生業としており、息子に非常にわずかな財産を遺したのみだった。息子は最初、官職選に立つか両替商を営むか迷っていたが、最終的にその名声を引き上げる望みを抱いて、雄弁術の勉強に彼自身を捧げることに決心した。

 のちにスカウルスは自伝(ローマ初の自伝であった)の中で次の様に書いた。自分はまるで「ホモ・ノヴス(新人)」(一族の中で初めて元老院議員となった人物)のように懸命に努力しなくてはならなかった、と。

 雄弁術への努力と同様に彼は軍隊で勤め、いくつかの栄誉を得たらしい。彼の最初の戦役はスペインでの、恐らくヌマンティアに対する戦争で、そこで角飾り(コルニクルム)の武勲賞を受けた。彼は次に、前126年にサルディニアにおいて執政官ルーキウス・アウレーリウス・オレステースの麾下で従軍した。前122年に上級按察官となったかと見られるが、貧乏のため豪華な競技会を開くことは出来ず、それよりも法の行使に努力した。

 我々は彼の初期の経歴について乏しい情報しか持ち得ないが、彼はその地位で多大な影響力をすでに得ていたらしい。前117年に対ユグルタの支援を請うためにアドヘルバルがローマに来た時には、スカウルスはすでにローマの指導者のうちの一人であったと、『ユグルタ戦記』の著者サルスティウスは書き記している。スカウルスはユグルタからの賄賂を受け取る機会を避けたごく数人のうちの一人だったが、それは収賄自体への嫌悪からというよりはむしろ、そのような行動から恐らく生じるであろう悪評への恐怖感からだった。

 スカウルスは富を蓄財し(良い方法のみでというわけではなかった)、前116年の執政官候補として出馬し落選したが、カエキリウス・メテルス家の助力を得て前115年に当選し、マールクス・カエキリウス・メテルスを同僚とした。

 執政官となって間もない頃、スカウルスが法務官のプーブリウス・デキウス・スブロ(自堕落だが雄弁で、民衆に人気のある人物だった)の前を通りがかったが、デキウスは無礼にも立ち上がらなかった。腹を立てたスカウルスは起立を命じ、デキウスの服を破り、法務官の椅子をたたき壊した。そして『何人たりともデキウスの処に訴訟を持ち込むこと相成らぬ』と布告し、デキウスに大きな恥をかかせた。デキウスは恐らくそのすぐ後に亡くなった。

 この執政官在任中、彼は贅沢禁止令や、他に民会での解放奴隷の投票の風習に関する法案を提出した。彼はさらに、リグリア人などいくつかのアルプス部族に対する戦いを続けて成功し、それらに対する勝利のために凱旋式を得た。またこの年、驚くべきことに、大氏族出身の監察官経験者でなければ就くことのできない元老院主席に監察官達(そのうちの一人は、同僚執政官メテルスの兄弟にあたるルーキウス・カエキリウス・メテルス・ディアデーマートゥス(117執政官等)であった)により指名されたが、その状況は明らかではない。スカウルスはこの後、前90年頃まで元老院主席を務めることとなる。

 彼はまた、ムルウィア橋を補修し、アウレリア街道とポストゥミア街道をつなぐ街道(アエミリア・スカウリ街道)の建設を始めた(ただしいくつかの資料ではこれらを監察官の時のことだとしている)。ますます元老院の中で強力となり、彼は同僚執政官メテルスの従兄弟にあたるルーキウス・カエキリウス・メテルス・デルマティクス(119執政官等)の娘、カエキリア・メテラと結婚して、メテルス家グループの指導者となった。この時が栄光の絶頂であった。

 スカウルスは前117年以来、ユグルタのヌミディア王位要求を支持する元老院内の勢力に一貫して反対していた。元老院の委員がアドヘルバルに割り当てた領地をユグルタが力ずくで奪い、さらにユグルタがアドヘルバルをキルタで包囲したため、前112年にスカウルスはヌミディアへ使節を率いて行き彼に警告をおこなった。ところがユグルタは、多大な敬意を示しながらスカウルスに対応したにも関わらず、キルタの攻囲を解かず、この年の末頃にこの町を陥落させ、その時にアドヘルバルを死に追いやった。

 ここに至ってローマはユグルタに対して戦争を宣言し、その指揮を翌年(前111年)の執政官のうちの一人、ルーキウス・カルプルニウス・ベースティアに委ねた。ベースティアは彼の副官のうちの一人にスカウルスを選んだ。ところが彼ら両人はユグルタから莫大な賄賂を受け取るや否や、ユグルタに最も好意的な和平条件を認めたのである。この不名誉な取引は、ローマの民衆に恐ろしいほどの憤慨を起こさせた。これらの賄賂は実際には、伝統的に庇護民からローマのパトロンへの贈り物として認められていたものであったのだが、スカウルスらは愛国の義務よりも庇護民たるユグルタの利益を考慮したと非難されたのである。前109年の護民官ガーイウス・マミリウス・リメタヌスの法案によって、ユグルタから賄賂を受け取った、あるいはその企図にどんな形であれ賛成したすべての人に対する審問が開始され、元老院はそれに対抗する勇気を持たなかった。スカウルスは最も多く賄賂を受け取っていた者の一人であったが、この国における彼の影響力が非常に強かったため、その反ユグルタの経歴もあって、彼はこの収賄行為を告発する目的のために選ばれた三人の委員のうちの長にうまく選ばれた。しかし彼はこのように彼自身を守りはしたが、共犯者達を守ることはできなかった。ベースティアや他の多数の者達が有罪となった。

 同年(前109年)、スカウルスはマールクス・リーウィウス・ドルースス(112執政官等)と共に監察官となった。任期中にドルーススが死亡したため、慣習によればスカウルスはその職を即座に辞するべきであった。ところが彼はその職に留まり続けたため、護民官たちが投獄という脅しによって彼に辞任を強いて、やっと職を辞した。

 前104年、スカウルスは穀物価格の値段の高騰につけこんで、穀物輸入の責任者であった財務官をその職から引きずり下ろし、その後任に収まることに成功した。スカウルスがその職を得ようとしたのは、当時領土も人口も拡大したローマが穀物の供給をエジプトなどからの輸入に頼るようになっており、穀物管理の責任者が民衆の人気を得やすいポストだったからである。ところがこの仕打ちを受けた財務官ルーキウス・アープレーイウス・サートゥルニーヌスはこの出来事をきっかけに貴族階級を憎むようになり、民衆派として元老院体制に挑戦することになった。しかし前100年、スカウルスはサートゥルニーヌスとその一派を鎮圧するため執政官マリウスに武力行使の権限を付与する元老院最終決議を提案し、サートゥルニーヌスらは殴られて殺害された。

 スカウルスは幾度か、異なる罪状で告発されたが、それは主に私的な敵からであった。しかし、この国における彼の影響力が非常に強かったので、彼は常に無罪となった。彼は、自分が所属していた鳥占官団のメンバーにアヘノバルブスを加えることを拒んだ。その結果として紀元前104年にアヘノバルブスは彼を大逆罪のかどで告発した。スカウルスの不手際のため、ラウィニウムにおける公祭が正しく執り行われなかったからというのがその理由である。しかし35のうちの33トリブスが、彼の無罪に票を入れた。

 前91年、スカウルスは不法徴収の罪でクィーントゥス・セルウィーリウス・カエピオーに告発された。カエピオーは、スカウルスがアシアへの使節であった間(前90年代?)に、公金を着服したと主張したのである。しかし彼はカエピオーに対して反対訴訟を行うことによって自らの身を守った。翌前90年にカエピオーは復讐のため、護民官のクィーントゥス・ウァリウスを説いて、イタリア同盟に反乱を起こさせた罪でスカウルスを告発させた。スカウルスは悠然と裁判を迎え、フォルムに入り、人々に、
「スペイン人のクィーントゥス・ウァリウスは、アエミリウス・スカウルスが同盟諸市を武装蜂起に走らせたと言い、元老院主席のマールクス・スカウルスはそれを否認している。さて諸君は、どちらがより信ずるに足ると思うかね?」
とたずねた。それがあまりにも民衆の好みに合う明白な論証であったため、護民官ウァリウスは告訴を取り下げざるを得なくなった。スカウルスは今度は自分がかけられたのと同じ嫌疑でウァリウスを告訴し、ウァリウスは有罪となった。

 それからすぐスカウルスは72歳になり、その後ほどなく死去した(恐らく前89年)。そのため前88年、彼の未亡人となったカエキリア・メテラはスラと再婚した。妻カエキリアとの間に、スカウルスは二人の息子と、娘アエミリアをもうけていた。

 スカウルスは貴族党の強固な支持者であったため、キケローなどの貴族政治支持者によってたびたび最高の言葉で賞賛されており、それは「誇張」の域にまで達している。彼は、グラックス兄弟以来の民衆派のリーダー達の敵対者として公的人生全体を送ったことで有名であるが、訴追されても必ず無罪になったことなどから、彼は常時民衆からいくらかの好意を得ていたのであろう。彼の性格の中には沈着さや熱心さがあり、それが尊敬を集めた。それに彼は公の目から彼の悪行、特にその貪欲と強奪のおこないを注意深く隠していた。

 『ユグルタ戦記』の著者サルスティウスは、彼をこう特徴付けた。

「アエミリウス・スカウルスは、高貴で、活動的で、党派心が強く、力、名誉、富を欲しがる人間であるが、一方では自らの欠点を隠す狡猾さも持ち合わせていた。」(『ユグルタ戦記』15)

 この様な評価は、名門貴族政治の悪徳を批判しようとする、ある特定の歴史家の目から見たものであることは確かである。しかし、スカウルスが公職を開始した時に貧乏であったことを思い合わせると、彼がその息子に残した莫大な富は、正当な手段によって得られたものではあり得ないことは明らかであり、スカウルスがユグルタから受け取った賄賂が、彼の財産の獲得方法の唯一の実例と見なされたのかもしれない。

 スカウルスの演説は堂々としていて重々しかったが、構想力と情熱に欠けていた。キケローは「彼らは法廷よりも元老院に、より適していた」と書いている(『ブルートゥス』29)。キケローはそれゆえ、彼をストイックな演説家だと見なしている。スカウルスはまた、その人生の中で三冊の本に業績を書き記したが、すぐに忘れられ、時々文法学者によって参照されるもののキケローの時代にはもう誰にも読まれなかった。




Aemilia
 アエミリア

貴族 ?-82?
父:Marcus Aemilius Scaurus(115執政官等)
母:Caecilia Metella(Lucius Caecilius Metellus Delmaticus(119執政官)の娘)
兄弟:Marcus Aemilius Scaurus(56法務官)
   Aemilius Scaurus
夫:Manius Acilius Glabrio(67執政官等)
夫:Gnaeus Pompeius Magnus(70執政官等)

 元老院主席となったスカウルスと、その妻カエキリア・メテラとの間の娘であるが、前89年に父スカウルスが亡くなって、母カエキリア・メテラがスラと再婚(前88年)したため、アエミリアはスラの義理の娘となった。

 前82年、スラはイタリアを征服して独裁官の職を受け、隊長や将軍達に褒美を与えて金持ちにし、官職に就かせ銘々の欲するものを気前よく豊富に授けたが、特にポンペーイウスの勇気に感服し、自分の事業にとっても大きな利益になると考えたので、何とかして縁を結ぼうと熱心になった。妻のメテラもこれに協力して、二人はポンペーイウスに説きつけてその妻アンティスティアと離婚させ、アエミリアが既にマーニウス・アキリウス・グラブリオー(67執政官等)に嫁してこの時身重になっていたのを娶らせることにした。

 アエミリアは身重のままアキリウスのところからポンペーイウスのところに連れて来られ、アンティスティアは最近夫のために父を失ったところへ、不面目にも惨めに追い出された(父アンティスティウスはポンペーイウスのためにスラの味方になったと思われて、マリウスの息子の命令で元老院の議場で殺されたのである。アンティスティアの母も、これらの事柄を目にして自殺した)。

 さらに、当のアエミリアもポンペーイウスのところへ来てすぐに、子どもを産む時に亡くなった。







?. Aemilius Scaurus
 アエミリウス・スカウルス

貴族 ?-102(自殺)
父:Marcus Aemilius Scaurus(115執政官等)
兄弟:Marcus Aemilius Scaurus(56法務官等)
102 副官?

 元老院主席となったスカウルスの、二人の息子のうちの弟。個人名は不明。前102年、北イタリアのアテシスで、キンブリ族に対峙していた執政官クィーントゥス・ルターティウス・カトゥルスの下で仕え戦っていたが、トリデントゥムの戦場から敗走したために父スカウルスから憤然と、父の面前に二度と現れないようにと命ぜられた。そのためすぐに、まだ若かった彼は自殺した(ウァレリウス・マークシムス、5.8.4)。







Marcus Aemilius Scaurus
 マールクス・アエミリウス・スカウルス

貴族
父:Marcus Aemilius Scaurus(115執政官等)
兄弟:? Aemilius Scaurus(102副官)
妻:Mucia(Quintus Mucius Scaevola 'Pontifex'(95執政官等)の娘)
息子:Marcus Aemilius Scaurus(官職歴なし)
66? 財務官
65-64 財務官代行(シリア)
63-61 財務官代行、法務官代行(シリア)
58 上級按察官
56 Pr.de vi
55 政務官代行(法務官代行)(シリア)
60頃- 神祇官

 元老院主席となったスカウルスとカエキリア・メテラの二人の息子のうちの兄で、それゆえルーキウス・コルネーリウス・スラの義理の息子でもある。

 スカウルスは前78年に、グナエウス・コルネーリウス・ドラーベラ(81法務官等)を属州での強奪の罪で起訴し、有罪の結果を勝ち取った。

 第3次ミトリダテス戦争で彼はポンペイウスの下で財務官として仕えた。ポンペイウスは彼を一軍とともにダマスクスへ送り、そこから彼はヒルカムスとアリストブルスの兄弟の間の争いを解決するためにユダヤへ進軍した。兄弟は二人とも、スカウルスに多額の金を提示した。スカウルスは前64年、アリストブルスに有利な判決を出したが、それは恐らくアリストブルスがより高い値を約束したからであった。ヒルカムスをユダヤの外へ追いやったあと、スカウルスはダマスクスに戻った。

 翌年、ポンペイウスがこの市に到着すると、スカウルスに対してアリストブルスから賄賂を受け取ったという告訴が持ち上がった。ポンペイウスはスカウルスの裁定を覆してヒルカムスを王位に付けると、裁判を無視して、スカウルスを2個軍団とともにシリアで指揮するよう立ち去らせた。スカウルスは、前59年にルーキウス・マルキウス・フィリップスによって引き継がれるまでシリアにとどまった。シリア統治の間、彼は略奪のためにナバテア王国の首都ペトラに侵入しようとしたが、その国の王アレタスから300タレントの支払いを受けて、その企図を取り消した。

 ローマに帰還すると、彼は上級按察官の候補者となり、前58年、プーブリウス・クローディウスが護民官であった年に就任した。スカウルスは按察官として硬貨を、同僚のプーブリウス・プラウティウス・ヒプサエウスと共に、彼のナバテア王に対する恥ずべき戦役を勝利として祝いつつ発行した。また、彼が開催した公的競技の並はずれた豪華さは、今までにローマで目撃されたすべてのものをしのぎ、彼の名は子々孫々まで伝えられた。彼が建設したその臨時の劇場は8万人の観客を収容でき、最も荘厳な手法で飾り付けられていた。360の支柱が舞台を飾り、3層の階に、一番下のものは大理石で、中の階はガラス(これは後世にも例のない法外な浪費であったという)で、一番上の階は金箔をかぶせた木でできたものが並べられていた。支柱の間には3000の像があり、その上に絵や他の装飾品まであった。猛獣との戦いは同様に驚くばかりのものだった。50頭の豹が競技場で見せ物にされ、5匹のワニと1頭のカバがローマではじめて公開された。しかし、スカウルスはこれらのショーで民衆の歓心を得るために、大きすぎる犠牲を払った。その損失の大きさは、彼が父から相続した遺産や、彼が東方で蓄積した富だけではまかなえず、費用を支払うために高利貸しから金を借りることを余儀なくされるほどだった。

 前56年、法務官として、スカウルスは当時サルディニアを統治(前55年)していたプーブリウス・セスティウスの裁判の議長を務め、そこで彼は彼の財産を取り戻そうとした

 翌前55年、彼は属州サルディニアを統治し、借金を返すためと、執政官職を得るために、容赦なく略奪をおこなった。前54年にローマに帰還すると、彼は執政官候補者となった。しかし執政官選挙が始まる前、彼の競争相手たちは、7月始めに、プーブリウス・ウァレリウス・トリアリウスら3人をして彼のサルディニアでの不法徴収を告発させた。というのは、この手に負えない敵を取り除いておくという望みからであった。彼の有罪は確実であった。というのは、彼に対する数多くの目撃者がいたからである。そしてまた、法務官を統轄していた小カトーは堕落しておらず、トリアリウスに好意的であった。しかしスカウルスはまだ絶望していなかった。彼はキケローとホルテンシウスによって、4人の他の雄弁家によってと同じくらい守られていた。ローマで最も有名な人たちの多く、その中でも執政官級の9人の人が、彼に代わって弁護した。スカウルス自身の涙と同時に、彼が按察官の時の豪華さのアピールが判決に対して大きな効果をもたらした。そのため、彼の罪にもかかわらず、彼はほとんど満場一致で9月2日、無罪となった。

 しかし翌前53年に執政官職を得ようと立った彼は再度トリアリウスから、不正手段による官職獲得の罪状で(他の候補者と同様に)起訴され、キケローの弁護を受けたにもかかわらず有罪となった。それは、ポンペイウスが離婚していた妻ムキアと彼が結婚していたという敵意からであった。彼は追放され、前60年頃から得ていた神祇官職を保持したまま追放中に死んだ。彼と妻ムキアとの間には、一人の息子がいた。

 スカウルスはパラティヌスの丘に、豪華な設備のある家を所有していたが、そのために彼は非常にあざけりを受けていた。彼はまた、トゥスクルムに、別荘と切り石のコレクションを持っていた。

 下のコインは、スカウルスが彼の同僚プーブリウス・プラウティウス・ヒプサエウスと共に上級按察官であった時に発行したものである。表の主題はヒプサエウスに関係があり、裏はスカウルスに関係がある。表にはプーブリウス・ヒプサエウスと共に、四頭立ての二輪戦車の上のユーピテル神が描かれている。AED.CVR.C.HVPSAE.COS.PREIVER.CAPTV.
 この伝説の後の部分は、前341年のガーイウス・プラウティウス・ヒプサエウスによるプリーウェルヌムの征服に関係している。裏にはらくだと、そのそばでひざまづいているアレタスが、手にオリーブの枝を持っている。この主題は、上で述べたスカウルスによるアレタスの征服に関係がある。この伝説は、M.SCAVR.AED.CVR.EX.S.C. また、下はREX ARETAS。








Marcus Aemilius Scaurus
 マールクス・アエミリウス・スカウルス

貴族
祖父:Marcus Aemilius Scaurus(115執政官等)
父:Marcus Aemilius Scaurus(56法務官等)
母:Mucia(Quintus Mucius Scaevola 'Pontifex'(95執政官等)の娘)
息子:Mamercus Aemilius Scaurus(後21補欠執政官)

 マールクス・アエミリウス・スカウルスは、前56年法務官のスカウルスとムキア(三頭政治のポンペイウスの前の妻)の間の息子である。つまり彼は、セクストゥス・ポンペイウスの異父兄弟ということになる。

 スカウルスはシチリアでセクストゥス・ポンペイウスの艦隊が敗北した後、セクストゥス・ポンペイウスに同行してアジアに行ったが、前35年、セクストゥス・ポンペイウスを裏切ってマールクス・アントニウス将軍の手に引き渡した。アクティウムの戦いの後、彼はオクタウィアヌスの支配下に落ち、有罪判決を宣告されたが母ムキアのとりなしで死を免れた。






Mamercus Aemilius Scaurus
 マーメルクス・アエミリウス・スカウルス

貴族 ?-後34(自殺)
祖父:Marcus Aemilius Scaurus(56法務官等)
父:Marcus Aemilius Scaurus(官職歴なし)
妻:Aemilia Lepida(Manius Aemilius Lepidus(後11執政官)の姉)
  Sextia
娘:名前不明(Lepidaとの間の子)
後21 補欠執政官

 マーメルクス・アエミリウス・スカウルスは、前項の息子。彼は放縦な性格であったが、当時最高の雄弁家かつ詩人として有名であった。

 彼は後14年のティベリウス帝の即位の時の元老院議員の一員で、その時彼は元老院で述べたいくつかの意見で、この疑い深い皇帝の気分を害した。『年代記』1.13によるとその時の言葉は、「先にあなたは、執政官の提案を、護民官職権の権利で拒否されなかったので、元老院のこの頼みも聞いてもらえるものと期待しています」というものであった。

 スカウルスは当初アエミリア・レピダ(マーニウス・アエミリウス・レピドゥス(後11年執政官)の姉)と結婚していた。彼女はス^ラとポンペイウスの血を引いていた。彼女は後20年に告発されて有罪となり、水と火の禁止(イタリアからの追放、市民権剥奪、財産没収)を宣告されたが、レピダとの間に娘を持っていたスカウルスの顔を立てて、彼女の財産を没収しないことが決議された。(『年代記』3.22〜24)。

 スカウルスはティベリウス帝に嫌われていたが、後21年の補欠執政官となった。尤も、属州は統治しなかった。

 彼は後21年、ドミティウス・コルブロの告発人の一人として、また同様に後22年のシラヌスの告発人の一人として名を挙げられている。彼は後32年に大逆罪の罪で訴えられたが、ティベリウス帝は彼に対する追及をやめさせた。

 しかしながら、彼は後34年に、再び法廷に召喚された。それは親衛隊長マクロから受けた憎悪が原因であった。マクロは、スカウルスの書いたある悲劇の筋を改竄し、皇帝への風刺と見える詩句を添えてティベリウス帝に見せていたのである。尤も、表面上の告発者だったセルウィーリウスとコルネーリウスは、リーウィアとの不義、ならびに彼の魔法の秘儀を弾劾していた。

 スカウルスは、名門アエミリウス氏の一族にふさわしく(彼はアエミリウス氏族の著名な男子としては最後の人物であった)、罪の宣告に先立って自殺を選んだ。これを勧めたのは、その時の妻のセクスティアであった。セクスティアは夫と運命を共にした(『年代記』3.31, 6.9, 6.29)。








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